自由に、正直に、今を丁寧に

自由に、正直に、今を丁寧に生きる シンプル+シングルライフをを綴ります。

少ない物と少ない人間関係が丁寧と余裕を生む

所有と執着は恐ろしい。

私の物!ってなった瞬間から、奪われたくないという執着が生まれる。


執着の恐ろしさは相手を支配しようとする心が生まれることだ。


相手を意のままに動かそうとするから、怒りや不満が生まれる。
私は私
あなたはあなた
を忘れた瞬間から、相手への支配が生まれる。
思い通りに動いてくれないなんて勝手な怒りが生まれる。

手放そう。
そんなに多くの人間関係の継続は必要ない。
少ないからこそ、大切に、丁寧に関われる。

人も物も、限りある時間の中で今この瞬間に最大限の愛を注ぐことに
美しさを感じる。

自分の子供だから、とても大切なただの他人様

どんな親しい間柄であっても、その関係性に傲慢になりたくない。
自分の息子だから、血がつながっているからというだけで
乱れた言葉遣いで接したくない。
自分の傲慢さにも、無自覚になりたくない。

息子のことは愛してやまないけど、常に一線を引いている。
愛してやまないけど、その愛に盲目になると、
相手の存在を軽視する態度になってしまう落とし穴がある。

うまく言葉に出来ないけど、息子には
『とても大切なただの他人様』みたいな感覚がある。
息子(5歳)との会話には、私から発する言葉に敬語が入る。
馬鹿丁寧ではなく、例えば『本、片付けましょうね』とか『頑張りましたね』とか。

相手に丁寧に接するように理性が働くと、口から出る言葉も丁寧になる。
相手に愛が溢れると、『大好き!』『可愛い!』と、口から出る言葉も無邪気さが溢れる。
相手を意のままに動かそうとすると、口から出ることも粗雑になる。

思考は現実化し、行動となって現れる。
言葉を丁寧に扱えない人は、自分も丁寧に扱えない。

毎日5歳児と接していると、理性を保つにはあまりに苦しい瞬間が何度もある。
怒りじゃなく、叱る、伝える言葉で話すには、先ずは自分自身との平和な関係が最重要事項だ。
余裕と余白があれば、笑って許せる。
笑って許せた先に、お互いの成長がある。

結婚指輪にザワついてた私、バイバイ

結婚指輪のトラウマ?かな。
私が20代後半の頃、『負け犬の遠吠え』という本が大ヒットした。
結婚していなかった私は焦りのど真ん中にいた。
その本の存在に大きく胸をえぐれていた。

『あの人いいな』『素敵だな』
と思う人のほとんどが、結婚指輪をしていた。
なんだかその指輪を見るたびに、自分自信を全否定されてる気持ちになった。

でも今思うと、当時は自分を心から愛していなかった。
その隙間を埋めてくれるのが、結婚という形だった。
みんなが属する方に属することで得る安心。
みんな結婚するから私も結婚して外から見て一人前とされる所属に入りたかっただけ。

でも、結婚してもダメだった。
甘かった。

結局、自分としっかり向き合って、ダメな自分も丸ごと愛して、
ダメな自分のダメささえ愛しい、いいんだよってなってきた今だからこそ
他者に気持ちが向き始めてるのかもしれない。

他人との関係は愛したいだけ自分を愛して、大事にして、
そこからやっと始まる。

大丈夫、自分と仲良くできていれば、恋人も、結婚相手も、自分の子供さえ
旅立っていくことに、すがったりしないから。

私だけは、私を離さない。
私には、私がいるから大丈夫。
素敵な私なら、素敵なあなたに会える。引き寄せられる。
そう信じてる。

形にこだわる人間関係の外側に行きたい

素敵な人はどこまでも素敵だ。
素敵な人には沢山の人が惹きつけらる。
モテる人はどこまでもモテ続け、ファンをさらに増やしていく。
モテのパンデミックが起こる。
当然。
だって、素敵だもの。
だって、美しいんだもの。

それが、彼氏、彼女、結婚。
誰かの所有という枠に入った瞬間から、他者の介入が遮断される。

私もー なんて無邪気に入ろうものなら
略奪だ、浮気だと攻撃され、
既婚者にいたっては法律という刀で斬られる。

今の法律では、結婚してる人に他者が介入したらダメってルール。

でも、それってどうなんだろう。
素晴らしい存在が独り占めされるっていいことなの?
素敵な人のシェアが存在してもいいんじゃないかな。
私が好きになった人に、他の誰かも好きって言う。
今は喜んじゃいそう。
私が好きになった人が、他にも好きな人が出来たと言われたら
今は『そうなんだ』って淡々としてしまいそう。
だって好きになるなんて、自由だ。

私自身が今、既婚者とどうこうというわけではないけど。

自分が結婚の外側と内側、どちらにいるかで
感性をシャットダウンしてしまう必要はないと私は思う。

私の理想の暮らし

基本は独り暮らしの自活。独りの時間を一番にする。
契約する人間関係(結婚、正社員とか)は、私は遠慮する。
家は小さく、物は少なく、食事は大切に。
例えば、自然豊かな場所に ログハウスを建てる。
暖炉があって、お花を飾って、手作りの家具が配置されているみたいな温かみは必須。
 
達でも、恋人でも、一つの家族でも、近くに同じ考えの人が住んでいる。
 
気ままに食事や会話を一緒に楽しむ。
 
時間が来たら、解散してそれぞれの拠点に戻る。
また、気ままに食事や会話を一緒に楽しむ。
畑仕事など、共通のナリワイがあればもっと嬉しい。
 
必要なものは、自分たちで作るか、シェアする。
 
そんなのが暮らし理想。
 
家族だから、子供だから、24時間365日一緒にいなくちゃいけないなんて
ほんと窮屈だ。
 
自分には無理だと思い知った。
 
限りある時間の中で会うことで、輝く時間もあると私は思う。
また会いたい、もうちょっと話したかったな と思える時間で
お開きにするのが、ベストだ。
 
惰性で一緒に過ごすくらいなら、お互いの前進のために
敢えて離れるを選択する方が、潔い。
 
子供との距離もそう。
子供は保育園。
私は仕事。
 
この離れてる時間があるからこそ、一緒にいる時間が心から尊いと思え、
大切にできる。
 

やっぱりやりたい

独りで子育てしていると、『これやってみたい!』と思っても即決できない。
子供のせいにしたくないので、団地に引っ越したら、助けをかりてチャレンジできないか実験したい。
達成できたら、シンママで諦めてる人の希望になるから
 
・断食
・田舎フリーランス養成講座への参加
・レンタルファーム、
・米づくり
・地球のしごと大学の入学(全日程日曜日のため)
 
子供がいないと即実行できる。でも、現実に子供がいて、ひとり親である。
子供がかわいくて、世界一愛してる。一緒にいて幸せだ。
でも、自分がやりたいことは諦めたくない。
自己犠牲精神で子育てしても、メッキは剥がれる。
自分を後回しにして子供と遊んでいても、無念の蓄積が自分を苦しめる。
自分で自分を豊に出来なければ、子供と共に幸せになるなんて無理だ。

 

人を批判している場合ではない

いい加減、他人の欠点や弱さにイライラするのは辞めしょうよ、私。
私が他人の欠点にイライラするのは、他人に自分の欠点を見ているからだ。
まさに『自我縮小』。
 
失敗を恐れて 新しいことにチャレンジ出来ないのは私でしょう。
弱さをさらけ出せず、うじうじしてるのは、私でしょう。
 
他人に心を開きたい。
出来ないこと、わからないこと、弱さをさらけ出したい。
弱さをさらけ出せないのは弱いからだ。
 
それが出来ないのはなぜ?
 
分からないこと、出来ないことを受け止めてもらえなかった過去があるから。
責められた、否定されてきた。
 
でも全員だった?
 
父も、先生も、職場の人も、受け止めてくれたよ。
受け止めてくれた人は、過去にいっぱいいたよ。
 
私の不完全さを攻め、嘲笑い、罵倒した人がいた。
一番近くで仕事をしている人。
その人とうまくやらなきゃ、会社で生きていけないと思っていた。
その人の顔色を伺うのに必死だった。
正解は0で、失敗は-100だった。
正解は0っていうのが大きくて、うまくいっても当たり前で終わった。
そこにはイエスもノーもない。出来て当たり前。
正解を出すのに、どんなに苦しんで、頑張っても 0。
反応があるのは、間違えた時だけ。
『お前が悪い』『間違えるな』『信じられない』
そんな否定の言葉だけ投げつけられた。
 
あなたも失敗するでしょ?と何故言えなかったのか。
 
あの時、あの場所で、私は思いをぶちまけるべきだった。
その人に、怒りをぶちまけるべきだった。
 
言わなきゃダメなんだ。
その時感じた、感情を押し殺してはいけない。
 
その時、言わなきゃだめなんだ。
 
でも、大事なのはこれからだ。
 
もう一度、自分に聞く。
でも全員だった?全員に責められた?
 
父も、先生も、職場の人も、受け止めてくれた人はいたよ。
わからない私のところまで、階段を降りて、私の呼吸に合わせて
一緒に考えたくれて人もいたよ。
 
たった一人の暴君に支配されちゃだめだ。
 
受け止めてくれる人もいる。
私も受け止めることができる。
 
この二つに、これからは舵を切っていきたい。
その為には、自分の時間を取り戻そう。
相手に優しく出来る、余裕を取り戻そう。
 
きっと、あの人も、攻めたてられる日々を送った
かわいそうな人なのかもしれない。
 
出来たことは褒める。
当たり前をゼロで流さず、
出来たこと、そこに確かにその人が気持ちを込めた事に
気づき、込めた気持ちに確実にOKを出したい。
 
ありがとうって言葉は
『あなたは確かに心を込めた
ということを伝えることなのかもしれない。
 
私はそのことを伝える人間になりたい。